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聖エジディオ修道院長      St. Aegidius C.           記念日 9月 1日


 聖エジディオは640年頃ギリシャのアテネに生まれた。両親は信心深い人々であったが、早く世を去り、息子にかなりの大きな財産を残した。エジディオは若年の頃から既に、唯天主の為にのみ生きたいという望みを抱いていた。それで、どこか静寂な所に退き、誰にも妨げられず祈りに専念しようと決心し、全財産を貧民に施してしまい、自分は乞食をしながらイタリアを通ってフランスに来た。それは彼の26歳ころのことであった。
 エジディオはアルルに至り同市の司教の快諾を得て2年間その許に止まった。司教は彼をいつまでも手放したがらなかったが、彼自身は全くの孤独を憧れるあまり、窃かにそこを立ち去り人里離れた場所に行き、みすぼらしい小屋を建てて起居した。けれどもやがてその隠れ家も発見されずにはいなかった。近所の人々は彼の聖なる生活振りに感嘆して彼の教えを請いに来た。しかし孤独を愛する彼にはその煩わしさが耐えられなかった。で、今度は大森林の奥に分け入り、とある泉に程近い洞穴を見出し、そこに住まうこととした。
 彼はその別天地で祈りと黙想の中に幾年かを過ごした。その飲食物は水と草根木皮の外になかった。彼については次のような伝説がある。その洞へは毎日一頭の鹿が来て彼に父を与えた。が、それは再び人に見出される原因とならずにはいなかった。即ちある日大勢の家来達を引き連れたワンバという王がその森に狩猟に来た時、その猟犬に追われたその鹿がエジディオの洞穴に逃げ込んだ。王がその跡をつけてそこへ来て見ると、犬がどうしたのか立ちすくんでその洞に近づかない。王や家来達は不思議に思って頻りに叱咤するが、更にその効がない。鹿はと見ると聖人の足許にうずくまり、エジディオはかばうようにこれを抱いている。王は弓に矢を番えてその鹿目がけて切って放した。すると狙いは狂って矢は鹿には当たらず聖人の手を傷つけ、鮮血が流れて衣服を染めた。王はそれを見るとひざまずいて赦しを願い、詫びの印にこの隠遁者に数多の土産物を贈ろうとした。しかし彼はそんな物には目もくれず、「私は何もいらぬ」と言ってどうしても受け取らぬ。そして「こういう傷の痛みは良い償いになる」と言って包帯する事さえ拒んだ。
 その時から王は度々この洞へ来て、エジディオと聖なる談話に時を過ごした。そして時々彼に土産物を与えようとしたが、彼は依然受け取ろうとはしなかった。けれども王が是非にと言うと、彼は「もし天主様の為に何かをなさりたいと思し召しなら、修道院をお建てになってはどうでしょう。そうすればそこに住む修士達は陛下の為に常にお祈りを献げるでしょう」と言った。王は「貴方がその修院長になって下されば勿論喜んで修道院を寄進します」と答えた。エジディオはこれを聞くと始めは当惑して頻りに断ったが、やがて天主の思し召しと悟ったのか、院長になることを承諾した。
 修道院は今まで彼の住んでいたその場所に建てられた。間もなく数多の青年達が志望してその修士となった。エジディオはベネディクトの戒律に従い、よくその修道院を治めた。彼の立派な行いは何人にも無上の教訓となった。王はその生活費その他を補助し、教皇はエジディオにいろいろと好意ある助言を与えられた。
 しかしエジディオが預言した如く、二、三年の後サラセン軍が来寇し、付近一帯はもとより彼の修道院をも荒らした。エジディオは修士達とある所に難を避け、後二、三人の兄妹と共にオルレアンに赴いた。オルレアンには当時権勢をふるっていたカロロ・マルテルがいて、彼に逢うことを望み、その代祷を願った。
 サラセン軍が撃退されると、その修道院は復興され、エジディオもそこに帰った。けれども幾千もなく彼は天主に召され、清い魂をその御手に返した。時に725年9月1日のことであった。
 その世を去るや否や、人々は直ちに彼を聖人として崇敬を献げ始めた。彼を保護者と仰ぐ聖堂や修道院は、フランスは言うに及ばず、それに隣る国々にも沢山ある。ちなみに彼は14人の救難聖人中に数えられている。

教訓

 聖エジディオはわが財産を貧民に分かち、己は清貧に甘んじ、後国王に多くの土産を贈られても更に受納しようとはしなかった。かくすることは万人に出来る事でもないし、また万人が
かくすることは天主の思し召しでもない。が、ただ天主は我等が金銭を唯一の目的とせず、貪欲の奴隷とならず、常に死の日にはこの世の一切を失って天主の審判の庭に立つべきことを忘れぬよう望み給うのである。